自己紹介
私は昭和59年1月10日に、奈良県で生まれました。
生まれ育ったのは法隆寺がある斑鳩町です。
父は中学校教師をしていました。
小学校の頃から勉強はそこそこできましたが、小学校4年生くらいから塾に通い始め、
そこからさらに成績が伸びたため、当時の講師から中学受験を勧められ、
中学受験に強い隣町の塾に電車で通うようになります。
その塾では当然強者がたくさんおり、私は中~下くらいの成績をさまようことになり、
ここで挫折感をはじめて味わいます。中学受験はあきらめ、地元の公立中学校に進学することになります。
中学校ではのびのびと過ごせて、非常に楽しい時期でした。
技術部という部活に入り、当時最新だったWindows 95のパソコンやMS-DOSでのプログラミング(ロゴライター)などにはまります。
当時はダイヤルアップ回線で画像のダウンロードは時間がかかったり、今となってはかなり不便でしたが、インターネットというものに非常に感動していました。
この時期からITやパソコンを使った仕事をしたいなとおぼろげに考えていました。
高校は橿原市にある奈良県立畝傍高校に進学しました。
合格祝でWindows 98のパソコンを買ってもらい、この頃からさらにパソコンにはまるようになります。
ただ当時は今のような無制限に使える回線ではなく、従量課金制で使いすぎると通信料金が大変なことになり、
やりたいことはたくさんあるのに、自己制限していました。
程なくしてテレホーダイという23時~翌朝8時までの定額料金制度がはじまり、見事に毎日夜ふかしすることになり、
そこから4-5時間だけ寝て学校に行く生活をしていました。
当然ながら授業中は眠く、ずっと寝ていたので、日本史の先生には何度も注意されました。
そんな状況でしたので、学内の成績はまたまた中~下をさまようことになり、大学受験もあまり意欲が持てない状況にありました。
そんな中、高3の春頃に友人から、勉強法で有名な和田秀樹氏の本を勧められ、ここからまた勉強を始めるようになります。
和田氏の本は当時の自分にとっては衝撃的で、読んだだけで何か道が開けたような感じがしました。
どうせなら高い目標が良いと思い、京大を目指すことにしました。
当時の先生方も河野が京大志望?正気か?というような反応でしたが、気にせず勉強を続けました。
ただ勉強の開始時期があまりに遅かったせいか、現役時は不合格に終わり、駿台予備校での1浪を経て、
京都大学工学部電気電子工学科に合格することができました。
合格できた事実も嬉しかったですが、目標達成プロセスをやり遂げたという自信がつきました。
大学では京大という自由な学風もあり、色々自由に過ごしました。
テニスサークルに入ったり、株式投資サークルを作って皆で運用したり、あとは読書もかなりしました。
今まで本を読む習慣があまりなく、その反動か色々読み漁りました。
勉学の方はというと、大学受験でやや燃え尽きた感があり、またあまり身が入らなくなりました。
パソコンが好き、という単純な理由で工学部を選びましたが、専門科目もあまり興味が持てず、
大学受験自体は成功したのかもしれないけど、将来の進路をよく考えてこなかったツケが来てしまいました。
医学部の再受験も考えましたが、学生期間がさらに伸びてしまい学費やその間の生活費のことなどを考えると、
実行には移すことはできず、金融系には興味があったため、経済学部へ3年時に転部することにしました。
経済学部では金融工学の有名な先生がいらっしゃったので、そのゼミで勉学に励みました。
野村総合研究所での3週間インターンなども経験させてもらい、非常に有意義な時間を過ごすことができました。
しかしまた自分は本当にこの道でいいのかと悩み始め、就活もろくにすることはありませんでした。
途方に暮れていた中、経済学部内に簿記の講座があり、単位が取りやすそうかな、という気軽な気持ちで受講しました。
この講座は資格の大原の簿記講師の先生が大学まで出張で来ていただいて教えてもらえる講座でした。
簿記を勉強してみると意外に面白く、簿記2級まで取ることにしてみました。
簿記2級合格後、その大原の先生に話しかけられ、「河野君、公認会計士を目指してみないか」と言われました。
それまでは公認会計士という資格は聞いたことはありましたが、それを目指そうという思考は一切ありませんでした。
就活に身が入らない状態もあって、焦りみたいなものもあったので、先生に勧められたことで目指してみるのもいいかもしれない、
と思い、大学卒業後にすぐに資格の大原 難波校に入ることにしました。
大原では基本的には予備校の方針に従いつつ、大学受験で培った勉強法がここでも活きることになりました。
簿記は相変わらず楽しく、日商簿記1級まではストレートに合格できました。
会計士試験の試験範囲は膨大で、大学受験のとき以上に勉強しました。
実務とは離れた内容もありますが、多くは実務に関連する内容になっており、今の仕事の基礎になっています。
約1年半の勉強期間を経て、2009年11月、会計士試験に合格することができました。
会計士試験に通っただけでは、会計士を名乗ることはできず、多くの合格者はまずは監査法人という組織に入り修行します。
監査法人とは企業が適正な会計処理を行っているか・適正な決算を行っているかチェックをするのを業務としています。
クライアントの多くが上場企業や大企業になりますが、2008年9月のリーマン・ショックにより、
監査法人の新人募集もかなり数が絞られました。
2009年合格者が多く就職できず、実務経験が得られない状況になり、つらい思いをされた方も多いと思います。
私は面接前日は一睡もできず、面接の受け答えのシミュレーションを頭の中でひたすら行い、運良くあずさ監査法人に入所することができました。
監査法人では社会人としてのマナーや会計士としての基礎を叩き込まれました。
IT監査部という部署に所属し、企業のIT環境を監査する業務をメインに行いつつ、
通常の会計監査も経験させてもらいました。
監査自体の仕事はやりがいはあったものの、より企業に近い立ち位置で仕事をしたいと思うようになり、
事業再生などを取り扱う大磯経営会計(現、わかば経営会計)に転職します。
事業再生の仕事はとてもやりがいのあるもので、今までの勉強経験や実務経験が直接企業の手助けをすることにつながりますので、
この時期は非常に充実していました。会計士という資格を取って良かったとも思いました。
これを見ている監査法人勤務の会計士の方で、将来進路に迷っている方がいましたら、わかば経営会計さんへの転職を強くおすすめします。
業務上必要になったため、この時期に中小企業診断士の資格も取りました。
代表の大磯さんは私と同い年ながらすごく尊敬のできる方で、今でも目指すべき会計士像になっています。
事業再生だけでなく幅広い経験をさせてもらいまして、
自分で独立してやってみたいと思うようになり、続けたい気持ちもかなりあり迷いましたが、2015年に独立することになります。
独立後は銀行監査や事業再生における銀行折衝などの経験を活かし、中小企業の資金繰りを支援することをメインでやっていこうと思いました。
独立すると当然ながら自分の頑張りで収入が増えますので、下世話な話ですがそういった意味でもやりがいがありました。
また、自分の時間がコントロールしやすくなり、予定のない平日に旅行に行ったりと、そういった些細なことがとても嬉しかったことを覚えています。
私のお客様は創業期からご支援させていただいている方が多いですが、皆揃って勤め人には戻れない、とおっしゃっておられます。
少し話が脱線しましたが、順調にお客様も増えて行く中、2020年にコロナ禍が発生します。
その時期から面談はほぼすべてZoomに切り替えました。在宅勤務に切り替え、事務所も必要なくなったため解約しました。
場所の制約もなくなったため、どこに住んでも仕事は回していけるのではと考え、人生一度で好きなことをやってみようということで、2022年10月に沖縄に移住することにしました。
沖縄を選んだ理由として、①花粉症がないこと、②気候(夏暑すぎず冬比較的暖かい)、
③海が好きなこと(奈良県は海なし県なので海に憧れる人も多いです)、④子育てがしやすそうな環境などです。
普段は沖縄に住みながら、必要なときは大阪や東京などに戻る生活をしています。
沖縄移住の感想などはまたブログで書きたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

